ドッグビルという映画を観た。
物語は聞取りの上で展開される。
間取りとは、体育館の床に実寸で描かれた建築、つまり街の「図面」である。
ドア、窓、壁、室名等、正しく図法に従って描かれた図面の上で役者は演ずる。
ドアの上では透明なドアを開き、透明な壁の向こうではSEXが行われたりする。
映像がもつべきはずのリアリティが払拭された状態で、リアリティのある熱演が展開される。
そのギャップにイライラしながら、普通の映像に戻して欲しい気持ちをずっと抱きながら、The end を迎える。
図面は約束事である。 こう書けば、ああなっているということである。
更に言えば建築は約束事である。 室名を明記すれば、そのような生活が行われるという約束事の世界である。
実際の生活と約束事が作り出した空間とのギャップにイライラするというのが私達の生活かもしれない。
ドッグビルでは、映画が約束事であるという事実を露呈することでストーリー性は明瞭になっていた。
では、建築が約束事にすぎないということをはっきりと認識したときに何が残るのか。
建築の約束事や記号性をはぎとった時に残るもの・・・・・物質であり、光であり、影であり、風である。
映画における背景とストーリーのように、建築と生活はニワトリとタマゴで分かちがたいが、一度、建築という約束事から脱出しなければ、建築の真実に近づけないというような気がしてならない。
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