今後、誰が建築を発注するのか
ダムが必要なのではなくてダム工事が欲しかった、というような出来事と同様に、色々な建築は必要から建設されたのではなく、補助金の獲得・経済の活性化の為だったものも多い。
今後このような建築がなくなり、一企業一個人が発注者となるのであれば、公共の為、皆の為の一般解が求められる時代は終わり、特殊解としての建築が求められるに違いない。
個人レベルにおいては、建築は親子代々といった時間概念は完全になくなり、一生の一部に当てられる生活道具となった事は確実である。
一方、企業も大企業といえども永遠を感じさせるものではなくなり、急成長のベンチャー企業が社会で活躍している。 ましてや、昨今のリニューアル、リノベーションの流れの中で、建築の完結性、永遠性の神話は完全に崩れ、建築は意味において「軽く」造られ、その特殊解の傾向は一層強まるであろう。
むしろ、採算度外視の特殊建築競争がクライアントによって展開される。
バブル時と異なるのは、スターアーキテクト、外タレアーキテクトのブランド志向性による競争でなく、クライアント自身がその中心的プロデューサーとなることである。
何故なら、建築を造ることは、クライアントの自己表現、自己実現の手段となったからである。
かつて建築は、ユニバーサルで、空気や風景・背景と同化するもので、インテリアから家具、服飾となるにつれて個人の個性の表現が強くなるものであったが、今後は全く逆。
建築こそ、個人、個性の特殊性が要求され、その中にニュートラルな家具、ニュートラルな個人が存在するという構図になろう。
クライアントの自己実現の手段としての建築の特殊化は、建築家カタログによって信じ込まされた「建築の無限の可能性」という根拠のない前提によっている。
世界に只一つの合言葉で、しばらくとどまること
「世界にただ一つ」をフレーズに、しばらくとどまることのない自己満足のバトルが展開されるのであろう。
嵐が止み静かになり、バブルの建築・ポストモダンの建築が白々しく遠くに見えた−あの状態が再びやってきたとき、新しきクライアント達は何を建築に望むのであろうか。
私達は、未来のまたその先のクライアントの心に目を向けなければなるまい。
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