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□映画鑑賞から 「レイ」 |
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2005.12 |
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レイという映画を観た。
冒頭、眼の見えなくなった子供のレイが、部屋の片隅で動いた虫をつかまえるのを見て、母親が涙するというシーンがあった。
眼が見えないというハンディを克服してこれからを生きていく可能性を感じての涙である。
しばらくあとに、帝釈峡の国民休暇村のキャビンに家族で行った。
あいにくの雨でデッキで、ぼんやりと降る雨を眺めていた。眼が見えないとはどんなことなのかと思って目をつぶり、耳をすました。
雨を見ていた時はザーザーというだけの雨の音だったのが耳を澄ますと、屋根を打つ雨の音、軒先から落ちてデッキを打つ音、落葉に降る音、更に落葉の下を流れる水の音まで聞き分けられるではないか。
まさに色んな楽器が合奏してザーザーという音を奏でているかのようであった。
随分昔のことであるが、大阪南港の安藤忠雄設計のライカを見学に行ったことがある。
打放しコンクリートに囲まれた大空間のロビーでは、勅使河原蒼風の作品が展示されていた。
ナマコ状の大きなアルキャストの器に、まだ穂のついていない稲が垂直に立ちならんでいる−そんな作品だったように思う。
作品は静寂をテーマにしたものだったと思うが、ホールは空調の乾いた吹き出し音が耳につき、ザーザーと落ちつかない空間であった。
写真にすれば感ずることができたかもしれない静寂は、現実には存在しなかった。
以前、感動した建築体験を教えて下さいという雑誌社からのインタビューがあり、京都の町家での体験を語ったことがある。
真夏の蒸し暑い陽ざしの中を歩き町家についた。
格子戸を引いて中に入ると、薄暗く、涼しい空気の中に放り出された感じであった。
スーッと汗がひき、奥行きのある空間の中にポツンといる自分が感じられた。
急に暗くなり、梁を組んだ天井の高さも、奥深く続く通り庭が見えた訳ではないのだが、その空気の差は空間を感じさせた。
眼の見えない人も建築に感動できるのだろうか。 もしできるとしたら、どのようなつくり方で出来上がった建築なのだろうか。
建築は空間アートだ、体験アートだと言いながら私達の建築体験は実際には殆んどが写真体験である。
眼の見えない人には全く意味のない世界を出発点として、そこに帰結している面がある。
そうではなくて、風や光、温度や湿度、音の反響や吸音等、眼に見えないこと、空気の質の様なものをデザインの対象とできないものだろうか。
見えないものをデザインする−そのデザイン手法を探そうといている者にとって、映画「レイ」は一つの方向を与えてくれるものであった。
眼が見えないという前提に立って建築を考えるという方法である。
色は意味を失い、形もデザインの対象とはなってこない。 これは計画の理論や手法ではないが、見えないものをデザインするスタンス、姿勢のようなものにはなり得るように思われる。
それに替わってもっと重要なことが浮かび上がり、新たな建築の可能性が生まれてくるのではないか。
そんなことを期待して、眼の見えないことを前提とした建築づくりを続けてみたいと思っている。 「横から見た建築・都市」トップページに戻る |
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