書店で見たユーザー向け建築本の黄色い帯に書いてあった文字が頭から離れない。
「建築家は建築のためなら骨身を惜しまないが、それは決して、ユーザーのためではないことを忘れてはならない」 ・・・・自らを純粋な建築家魂を持つ建築家だと自認する者ほど、グサッとくるのではなかろうか。
「安全をとるか、美しさをとるか」「使いやすさを優先か、デザイン優先か」「快適な空間をとるか、少し我慢して美しい空間をとるか」・・・・本来、建築は用途を備えたものであり、安全をどうデザインするか、使いやすさ・快適性をどう空間化するかが検討課題のはずが、二項対立的な価値観の葛藤に入り込んでしまうのは何故か。
ユーザーの好みや生活観を撮るのではなく、建築家の発想、空間の在り様を撮るのだからという理由で、カーテンをはずし、網戸までもはずし、置かれた花や掛けられた絵もはずして、建築写真を撮る作業を手伝いながらも、何か少し変だなと感じない建築家はいないだろう。
建築のためなら骨身を惜しまない・・・・云々と同様に、竣工引渡しまでのあの熱心さはどこへいってしまうのか、引渡し後に続く設計の作業はどうしてあのように苦しいのか、やっと目的のために使われ始めた「作品」の完成度をより高めていく、楽しい作業ではないのか。
建築家のタコツボ的思考回路の閉鎖性は、如何なものであろうか。
シンプルモダン派は、伝統土もの派の仕事をその人格ごと否定し、環境・エネルギー派は己だけの正統性を疑うことなくシンプルモダンを敵のように見なして胸を張る。
このような色々な派を、計画理論派は憐憫の情をもって眺めている。
本来建築は全てを含んだものであるにかかわらずである。
建築をやっていて、建築家をやっていて、何か変かな・・と思うことを列挙してみた。
建築のこのような不思議さはどこからきているのだろうか。
建築も建築家も完全でありたい、建築は完全なものであるという幻想から来ているのではないか。
ユーザーも含め、皆がそう思うから色々な無理が起きる。
「おりあいをつける」という言葉がある。 「つくろう」という言葉がある。
時間の概念、完全に対する対応の仕方の概念が、そこにある。
建築的行為は時間的に部分的な行為であるし、空間的にも社会的にも、部分的であるということが忘れられている。
ひとつの建築、一回の建築で完結するのでなく、建築は連続性の中で把えられるはずのものである。
空間的にも時間的にも連続するその一部分として建築を把えようとする。
その先に、未来の建築はイメージされてよいのではないだろうか。
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