先日来、週末を別荘で過ごしたり、国民休暇村(名前がすごい)のキャビンで過ごしたりする機会を得た。
自然を満喫してきた・・と言いたいところだが、具体的には造られた散歩道を歩いたり、デッキで緑を眺めたり、セミや鳥の鳴声を聞いたりしてきたということである。
物を見ると言っても、光を当てられた状態でしか見ることができないように、自然を体験といっても、まんまの自然ということでもない訳だが、それでも街にいるよりは、随分伸び伸びとした体験をしてきた。
街と自然とでは何が違うのか。
それは目に見える人工物は勿論、目に見えない秩序の有無ではないだろうか。
不謹慎な話になるが、大震災の後の神戸の街を歩き廻った体験は、森を歩き廻る行為と妙に共通する感覚がある。
それこそ人工物ばかりなのだが、既にその用途・機能を失って、人の為の物ではない物が無秩序に林立していた。 自然との相似形がそこにはあった。
自然・里山・都市・街・建築と並べてみると、建築がいかに自然と遠い所にあるか、いかに目的的で秩序に制御された場所であるかを改めて考えさせられる。
たとえばヌーディストクラブのように、秩序を1つはずすと伸び伸びとした空間が発生する。
伸び伸びとした空間をつくろうとするなら、秩序から開放されなければならない、目的や造り手の意図が薄められた空間でなければならない、ということにならないだろうか。
珪藻土を使い24時間換気するということでなく、建築を自然に近づけることはできないものだろうか。
人と建築の間に関係付けられた秩序のようなものを、なるべく薄くして、伸び伸びした場所をつくれないものだろうか。
「人工」とは、ああすればこうなるという世界のことであって、ああするルールに沿って行動しなければ、コトは前に進まない。
こうなるはずがそうならなければ、ストレスはたまる。
「自然」とは、ああしてもこうしてもどうにもならない世界なのである。
人(自然)・建築(人工)という構図から考えてみると、自然の一部である人間がわざわざつくり出した建築でストレスをためるのは、天にツバを吐くような妙な事ではないのか。
ある具体的な使い方を想定した押しつけがましい空間でなく、自然に近い空間はつくれないだろうか。
室名のない、ただ居心地の良いだけの場所はつくれないだろうか。
人為的な構築物でなく、空気そのものをデザインするような気持ちで空間をつくれないのだろうか。
全体を律する秩序を感じる空間でなくて、林や森のように部分と部分の関係が全体をつくり出していくような建築はつくれないだろうか。
破壊されてやっと自然になるのではなく、はなから自然な建築を目指そうではないか。
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